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2017.5.4

1st day プラスワン~田中裕子~

<Photo:Atsushi Tomura&Matt Roberts/Getty Images>

ワールドレディスチャンピオンシップ サロンパスカップ 茨城ゴルフ倶楽部 西コース(茨城県)1日目

 迅速。そして、的確。ルールをつかさどる競技委員の旨とするところだ。今大会、公式戦で初めて競技委員長をつとめる田中裕子。昨年行われたR&Aが主催するレフェリースクール。その中で最も高度な「レベル3」に合格した。大役をどう務めるか。ゴルフ人生のターニングポイントだ。

 田中には、不思議な伝説がある。「競技委員になるために、プロになった」。複数の関係者から、そんな話を耳にした。今回、思い切ってその質問から入る。ちょっと、戸惑った表情を浮かべたが、すぐさま笑顔に。そして、「その話、私も聞いたことがある。違いますよ。プロになったのは、トーナメントで活躍する選手になりたい。誰だって、そうでしょう。きっと、研修生時代、競技委員がプロだということを知らなかったことが、そんなお話になったのかもしれない」。

 ゴルフとの出会いは遅かった。小学校の鼓笛隊からスタート。中学、高校と吹奏楽部でトランペットやホルンなど、金管楽器を担当したスイングガールだ。では、どうして、ゴルフに…。「父の趣味がゴルフ。子どもの頃から、しきりにすすめられて。よしっ、やってみようと踏みだしたのは、大学進学が決まった時でした」と明かしている。タイミングも絶好だった。関西大学へ入学した直後、1年間の休学は、日本女子ゴルフ学校で手ほどきを受ける目的だ。「若いからこそのチャレンジ。1年やってみて、将来に不安がないか、それを探る意味合いもあった」という。

 半年間でスコア90を切る腕前。1年後には復学して、ゴルフ部へ在籍する。ただ、プロになるかを探るには、大いに時間をかけた。「ちょうど、卒業の年に島田幸作ゴルフ塾ができた。OLになろうかなぁ、とも考えていたけど、思い切ってプロを目指そうと心が決まった」。ただし、プロへの道は人生最大の試練だった。「18歳でクラブを握ってから、30歳までにテストに合格できなければやめる覚悟をしていた。だけど、もうちょっと頑張れ、あとひと息だからと励まされ、32歳に。8度目の受験を最後にしようと決めたら、通りました」。

 8年間の苦悩を、大一番で爆発させ、トップ合格を果たす。同期には、後に賞金女王に輝いた大山志保、生涯獲得賞金が10億円を突破した李知姫など、ゴールデンエイジである。そうはいっても、ツアープロとしての活動期間は、わずか5年。38歳から協力競技委員に転じる。「見切りがとてもはやかった。試合に出ても優勝できると思わない。だけど、富士通レディースであこがれの岡本綾子さんと、一緒にプレーできたことなど、いい思い出もたくさんある。何といっても、選手でなければロープ内を歩けない。それもうれしかった」。

 さて、自身の生きざまを示すように、ルールの世界へ身を投じると、わき目をふることがない。「毎日、クラブを握っていたのに、競技委員になってから、プレーしたのは、5ラウンドだけ。もっとやらないといけない。趣味も特になし。それではちょっと…。気分転換にまた、トランペットを吹いてみたいと考えているところです」。

 とはいえ、取材中、ずっと左手にゴルフ規則裁定集を抱えていた。人生のバイブルなのだろうか。

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